初期情報 No.Z063600         担当:上岡統 「ただひとり」 ―――――――――――――――――――――――――  京都下鴨の吉田[よしだ]家本邸の、そこだけは洋風にしつらえている応接間に、古びた柱時計の振り子の音が規則的に響く。その音はむしろ、この場の空気にとっては軽やかさを感じさせるものですらあった。 「やれやれ、とんだ『次期当主』もあったものですなぁ、かぐら[−]さん?」  三人掛けはあろうというソファーに横柄に座る男は呆れた様子だ。丸縁眼鏡にぴっちりと撫でつけた髪型、服装はオーダーメイドらしきスーツで、今はジャケットは羽織らずベストのみ。見た目だけで判断すれば、昨年末に急死した宮内庁陰陽課の重鎮・吉田鎮也[よしだ・しんや]の遺産整理に来た弁護士か銀行員である。 「兄の鎮也[しんや]さんが死に、もう四十九日も過ぎましたよ。遺言状が見つからないとは何事です。貴女はそれでこの吉田家の当主として、この未曾有の事態に立ち向かえるのですか」 「……學人[がくと]叔父様のおっしゃる通りです」  叔父の吉田學人[よしだ・がくと]の横柄さとは裏腹に、現在はこの本邸の主であるはずの吉田かぐら[よしだ・−]は、一人掛けの小さなソファに座り、身を縮めている。 「ほう。当主の継承式も終えていない身で、血筋を盾に、鎮也さんの跡取りは気取るわけですな」 「違います! わたしが、この陰陽課の危機に立ち向かえる器ではない、それは叔父様のおっしゃる通りだと」 「つまり自信がない、と。そうですか、ならば貴女は当主になんぞならなくてよろしい」  學人があっさりと言ったので、かぐらはしばし言葉を失う。 「陰陽課、いや吉田家をまとめるどころの話ではない。貴女はご自分の《祭主》とすらロクな付き合いが出来ていませんね。この本宅の、かの《祭主》の部屋に、彼が最後に足を踏み入れたのはいつです? 彼は鎮也さんの葬儀はおろか、姉さん──舞夜[まや]さんの葬儀にすら立ち会いませんでしたな。鎮也さんがこんな死に方をした責任の一端は、彼にあるのではないでしょうかね? 彼は自分の《祀徒》を何だと思っているのか」  かぐらは嗚咽をどうにか喉で堪えて、うつむくだけだ。その必要はないのに、かぐらが巫女装束を公式の場で着て、そして今もまた着ているのは、神事を司る家の身であり《祀徒》であると自分を励ますためだ。  かぐらの《祭主》在原業平[ありわらの・なりひら]は、吉田家の面々と関わりたがらない。それでもまだ舞夜が生きていた頃は嫌々ながらも顔を出すことがあったが、大霊災が起きて舞夜が死んでから、在原業平は吉田家への興味を完全に失ったらしい。吉田家本邸には吉田家で守ってきた《祭主》の部屋が存在するが、大霊災以降、在原業平はただの一度も立ち寄っていない。 「私を含め、吉田家の《祀徒》は《祭主》をお守りするのも一つの役目です。私の《祭主》など、かの日野富子[ひの・とみこ]さまですよ。あのお方と契約した吉田家の《祀徒》は命懸けだ。富子さまがいつ穢れを背負って《災主》になってしまわないかと皆ビクビクして日々を過ごしているのです」  そこで學人は中指一本で丸縁眼鏡のブリッジを押し上げた。 「もっとも、私は富子さまを完璧にお守りできていると思いますけれども」  ごく稀にではあるが、日野富子は大霊災以後も《祭主》の部屋を利用したことがあった。在原業平と違って。  《祭主》と会話どころか顔も合わせることもできない者には、吉田家当主どころか《祀徒》としての価値も危ぶまれる。そうはっきり言われた方が、かぐらにとってはまだ良かった。しかしそれは、學人が絶対に明言しないことでもあった。 「ともかく、本邸にもない、貸金庫にもないとなると、事態は急を要します。当主継承の儀式の一切は、遺言状に従って行わねば意味がありません。そして、血筋さえ引いていれば、儀式は効力を持ちますね。私も知らないような分家筋の手に渡るようなことがあっては、吉田全体の恥ですよ」  それは學人の本音であり、かぐらを追いつめている深刻な事実であった。 「分かっています。お父様の遺言状は、娘であるわたしが探し出すのが筋というものでしょう」 「そうなさるとよろしいでしょう。『次期当主』がどれだけ仕事のできる人間かは、吉田家の者も、そうでない者も、全員が気にしておりますからね。また来ますよ、かぐらさん」  學人は傍らのコートハンガーからジャケットとロングコートを外し、さっさと立ち去っていった。かぐらはその場から動かない。人の気配が完全に消えたことを見計らい、ようやくかぐらは涙をこぼした。 (舞夜様……わたしはどうすればいいのですか)  かぐらの母は、幼い時に行方知れずとなった。その代わり、伯母の舞夜が、かぐらにとっては母親にも等しい存在であった。舞夜はかぐらの母となってくれただけではなく、《祀徒》としての修練を積む上での師匠でもあった。かぐらは大霊災で舞夜を失い、そして父までをも失った。  學人は《祭主》の日野富子に全幅の信頼を置いており、《祭主》の在原業平を軽蔑している。在原業平と契約した舞夜や鎮也やかぐらのことを毛嫌いしていたのは前々からだ。大霊災以前はまだしも、以降はもう口に出して業平を糾弾している。  その業平とかぐらは、大霊災以前であればまだ、舞夜を通して何とか交流はできていた。思えばその頃から既に吉田家の人間にはうんざりしていると言わんばかりの態度であった。《祭主》の身では余所で遊びたくとも限界がある。かぐらは業平を理解したくて、大学では文学部を選択して在原業平について学んだ。歴史上の在原業平は本来さすらう人である。旧態依然とした家に押し込められているのは嫌だったのだろう。ましてや大霊災以降、《祭主》も《祀徒》もごく日常的な存在となった。業平が吉田家にいる理由も、かぐらを相手にする理由もないのだ。《祭主》の信頼を失った《祀徒》に、何の意味があろうか。  かぐらは客のいない応接間で1人、ソファの肘掛けにすがって泣いた。      ◆     ◆     ◆  どれだけの時間そうしていたのか。かぐらを我に返らせたのは、素っ気ない電子音であった。一つ深呼吸してから、携帯電話の着信を取る。 「吉田かぐらでございます」 『ハロー! かぐら! ワタシ今大阪にいるのよ!』  誰からの電話か気にとめずに電話を取ったかぐらは驚いた。 「ジャネットさん……!」 『元気ないね。きっと、家にずーっといるんでしょう。ねえ、京都と大阪から一時間で行けるみたいなんだけど、かぐらの家遊びに行ってもいい?』 「泊まってくださっても結構です! 部屋が余っているので!」  とっさにかぐらはそんなことを叫んでいた。 『ウッソォ! 良いの? じゃあ、ホテルをキャンセルしちゃう! よろしくね、かぐら!』  ジャネットはあっさりとそう決めてしまい、かぐらの返事を待たずに通話を切ってしまった。  かぐらは通話終了を告げる断続的な音を聞きながらぽかんとしてしまう。自分は今何を言い、相手は今何と答えてくれたのだろう。 (わたし……さびしいんだ……)  誰か味方が欲しかった。自分の味方になってくれる人が。元気なジャネットはきっと自分を励ましてくれるに違いない、でも。 (ジャネットさんは外国人だし、《祀徒》でもない)  だからこの苦しみを打ち明けられる相手ではない。  とはいえ、ジャネットを家に泊める準備はしなければならない。 「お客様よ! 丁重にもてなす準備を! あと、空いている運転手と車は?」  そうやって大声で呼べば、まだかぐらの側には世話人が寄ってくる。しかし、これでも足りない。  かぐらには《祀徒》の味方がいなかった。 ――――――――――――――――――――――――― ■マスターより ▼こんにちは、当シナリオのマスターを務めます上岡統です。以後よろしく。 ▼霊保院会議シナリオで宮内庁陰陽課代表として出席していた吉田かぐらの父の吉田鎮也急死に伴い、にわかに彼女の身辺が騒がしくなったようです。ただでさえ遺産相続はややこしいのに、鎮也の遺書が見つからない、鎮也の死後を仕切るべき当主も決まらない、かぐらは泣いているだけで、困ってしまいますね。 ■シナリオの目安 危険度:★★★ 対応人数:★ キーワード:「シリアス」「不幸なヒロイン」「御家騒動」「後継者問題」「巫女」「巨乳派」 ■関連選択肢 A063600 「吉田家本邸へ行き、吉田鎮也の遺族を弔問する」 ※備考:吉田かぐらと直接やりとりできる可能性が極めて高いです。ただし、かぐらは非常にナーバスになっています。特に宮内庁陰陽課の《祀徒》は彼女にとっては馴染み深い反面、御前の噂には警戒しています。 A063601 「京都の陰陽課に行き、吉田家について情報収集する」 ※備考:アクション次第では、吉田學人と直接的あるいは間接的にやりとりが発生します。